Glass - et cetera


歴史 種類 原料 着色 産地 アール・ヌーボー アール・デコ

[ 参考文献 ]
【産地別 すぐわかるガラスの見わけ方(改訂版)】井上 暁子 2003 ?東京美術【NHK趣味百科 ガラスへの招待】由水 常雄 1994 日本放送出版協会  【グラスフュージングBook One】Boyse Lundstrom/Daniel Schwoerer 1986 十条商事?  【ガラスの歴史】ダン・クライン/ウォード・ロイド 1995 西村書店 【ガラスを楽しむ】岡本 文一 1993 講談社  【世界のとんぼ玉】谷一 尚/工藤 吉郎 2000 ?里文 【ヨーロッパのガラス】オルガ・ドラホトヴァ 1988 岩崎美術社  【ガラス工芸ノート】視覚デザイン研究所 編集室 1991 視覚デザイン研究所  【ガラス大百科 All about glass】友部 直 1993 ぎょうせい 【ガラスの話】由水 常雄 1988 新潮選書  【だれにでもできる ガラス工芸】由水 常雄 2002 文遊社 【ステンドグラスの立体技法】ステンドグラスアートスクール技術書編集室 2005 ?美術出版社  【日本のガラス】戸澤 道夫 2001 ?里文 【世界ガラス美術全集 全6巻】由水 常雄 1992 求龍堂  【(別冊太陽)アール・ヌーボー/アール・デコ?】高橋洋二 1996 ?平凡社
[ 図録 ]
【花の様式 ナンシー派展】 2001 Bunkamuraザ・ミュージアム 朝日新聞社文化企画局 【ガラス博物誌】真道 洋子 2005 中近東文化センター
  ガラスの歴史


 ▼ ガラスの起源
ガラスの起源について 紀元前1世紀にはすでにその製法に関する発見が伝えられています。その一つ プリニウス(1世紀のローマの有名な博物学者)の大著 『博物誌』の中に 「天然ソーダを商うフェニキアの商人の船がアッコのすぐ南のベールス川(現在のナーマン川  かつてはシリア領で現在では イスラエル領に属する)の河口の砂浜で 食事の支度の為 自分たちの船の積荷のソーダの塊をくりぬき簡単なカマドを作り それに鍋をのせて調理した。 その時 ソーダ塊が高熱となり 砂浜の白砂とうまく混合し  それまでに見たことのない透明な液体が流れ出し これが冷えて小塊となったことに驚嘆した。 これがガラスの起源である。」 と書かれてあるそうです。
また 一説には 「シリア・レバノン・イスラエルの地中海沿岸には大変に美しい白色の砂浜が続き この砂浜で ある時落雷があり 白浜の珪酸と少量の海水成分が一時的な高熱により融合して出来た塊を見たこの地の人がこれをとりあげ その製法を知った。」  とも言われています。
そのほかにも 2・3の伝説があり それはいずれもシリア・レバノン・イスラエル地方(地中海東岸地域)で語り継がれてきました。 ただ これらの説話がいつのものであるかは明らかにされておらず それを決定づける資料がないため 推測ではありますが   ガラスの製法が発明されたのは 今から約5000年以上も前のことであったとされているのです。実験によって 現代のガラスのように無色透明なガラスは得られないまでも ガラスの前段階といえる状態になることが判明しています。

【草創期 ・古代】(紀元前24世紀頃〜紀元後1世紀)
発掘調査により 紀元前3000年頃にはすでにガラス製のビーズが存在したことが知られ 最古のガラスによる器の出現は紀元前16〜15世紀頃のメソポタミアと考えられています。 この頃のメソポタミアのガラス器は 鋳造法の一種であるモザイクガラスや  耐火型のコア・テクニックで作られた小さな容器で その製法はエジプトに渡り さらに発達しました。一説によると トトメス3世(在位 紀元前1504〜1450頃)に嫁いだ王女が輿入れの時にもたらしたとされていて  つづくファラオの時代からガラス製造は王宮近くで製造されるようになり エジプト様式を作り出しました。
ガラス器を発展させたのはフェニキアの民で現在のレバノン沿岸部を拠点として 前12世紀ごろから地中海交易を独占した海の民でした。彼らはコア技法でギリシャ陶器の器形を真似たガラス器を製作し 流通させたと言われています。 メソポタミアを中心とする地域とエジプトを中心とする東地中海地域の二つの文化圏のガラスがやがて イスラームを持って統合されていったと考えられています

【ローマ時代】(2世紀〜11世紀)
ローマ時代になると ガラス工芸史上 画期的な発明がなされました。つまり 吹きガラスの登場(紀元前2世紀後半)です。吹きガラス技法の登場によって量産が可能になり 同時にコストがさがったため ガラスが日用の器として爆発的に普及するようになりました。
広義のローマン・グラスは中国朝鮮を経て日本にももたらされ 現在使われているガラス工芸のほとんどの技法は すでに ローマ時代には採用されていました。ローマ時代は吹きガラスだけではなく 加飾の技法も高度な発達を遂げ 後にローマングラスの伝統を引き継ぎ  カットに特色を持つササン朝ガラス器は 当時の世界各国に輸出されました。正倉院宝物(白瑠璃碗)(はくるりわん) 紺琉璃杯(ワイングラス)のカット碗も ササン朝ペルシャの 代表例として有名です。
西欧古文献中(〜6世紀)には しばしば窓ガラスや板ガラスについての記録がありローマ時代には窓ガラスが上流階層の住宅などに使われていたことが 知られています。

【中世】(12世紀〜19世紀)
ヨーロッパでは ローマングラス以後 本格的にガラス工芸が始まるのは ヴェネチアにおいてでした。 地中海の覇権を握り 東方貿易を独占していたヴェネチアはガラス原料や製品の中継貿易に飽き足らず ガラス器の製造の独占をはかり 13世紀末には それまで本島にあったガラス工房のすべてを沖合いの ムラーノ島に強制移住させ ガラス工とその家族が島を離れることを禁じるとともに 高品質のガラス器の製造に力を注ぎました。
ヴェネチアガラスの特徴は 延展性に優れたソーダ・グラスをつかって 吹きガラスの技巧の粋をみせるところにあり  ガラスの持つ清澄な透明さを生かすために器をできるだけ薄く仕上げるテクニックやゴブレットのステム(脚部)を造形的に作りあげるドラゴンステムなどで 14世紀末頃には 水晶のように無色透明なガラス(クルスタルガラス)の製造に成功し  その後200年近く続く高級ガラスの供給地としての地歩を固めたのです。
ヴェネチアの次に台頭したのが ボヘミアでした。 ボヘミアのクリスタル・グラスはソーダ・グラスよりも硬いカリ・ガラスで 高い屈折率を生かしたカットやグラヴェールなどの製品を送り出し ヴェネチアに代わりヨーロッパの市場を席巻しました。 エナメル絵付けも盛んで 紋章や肖像風景画など あらゆるモチーフが描かれています。 また金を使って発色させる鮮やかなルビー・グラスを始め とりどりの色ガラスを開発しました。
イギリスでは17世紀後半に 鉛を含んだクリスタル・グラスが開発され イギリスの国力の増大及び世界への進出とともにイギリス流のテーブル・ウエアが世界に浸透しました。 現在クリスタル・グラスといえば鉛ガラスを指すようになった所以です。

【中国】
中国のガラスの歴史は紀元前4〜3世紀頃に トンボ玉の類が作られていて 紀元前2世紀〜紀元頃にかけては一種の鋳造法によって 装飾品や杯や碗などの実用品も作られていました。漢代には ガラス製品は多様化されましたが  ガラスの器が中国で作られるようになったのは 六朝時代からで 初めて中国にガラス技法が伝えられたのは 戦国時代のことです。
唐代の中国製と考えられるガラス器は 多くが舎利塔などに埋蔵された舎利容器としての瓶壺が多く現存していて 小型の薄造りで 素材は鉛ガラス 色は青緑色のものが多く 日本の仏寺に埋葬されていたことが知られている舎利容器も  多くは中国唐時代のガラスが伝わったものと考えられています。
「乾隆ガラス」と呼ばれているガラス器は清の乾隆帝(1736〜1795)の時代を中心に作られたガラスの総称で 乾隆年間に作られてものだけを指すわけではありません。 国内各地の職人の充実と新たな外国人技術者の登用によって目覚しい発展を遂げ 数多くの優品が製作され 「乾隆年製」の銘を持つ作品が多く現存しています。 様々な色の組み合わせによる 被せガラスやエナメル彩の華麗な作品がつくられ  宮廷内で流行した 嗅煙草(かぎたばこ)を入れる小さな容器で 様々な趣向を凝らした鼻煙壺(びえんこ)が多数つくられました。

【日本】
日本語の『ガラス』という言葉は英語のglass ドイツ語のglasに由来し 他に琉璃(るり)玻璃(はり)硝子 仮水晶 ビードロ ギャマンという言葉があります。
日本では弥生時代から ガラスが作られていました。 といっても器類ではなく小玉や勾玉などの装身具 護符などで 鋳型の出土例もあり 日本国内で作られていたことがわかります。 原料となったガラス生地は中国からもたらされたものと推定され 奈良時代には 鋳造法による舎利容器(骨壷)がつくられ  『源氏物語』や『栄花物語』などの平安文学の中にもガラス器の記載があるものの その後 江戸時代になるまで ガラス器ははとんど作られていませんでした。
江戸時代にはいると 長崎で(ビードロ)の製作が始まり  江戸の中期の頃には中国から伝わったガラスを吹く方法がかなり普及していました。 大道などに出て祭日の神社の境内などで 小さなガラスを目の前で吹いて売っていたことが知られています。ガラスの小さな坩堝(るつぼ)を簡単な築炉の中に入れ  その中にガラスの餅生地を入れて熔かし 燃料は木炭で小型の薄手のガラスで吹きあがったものは 灰の中にしばらく入れておく程度のなまし(徐冷)だったろうと推定されています。 江戸期の金魚鉢は金魚玉と呼ばれ 風鈴なども売っていたようです。

江戸で初めてガラスを吹いたのは 浅草の源之丞 という人で 正徳年間(1711〜1716)のことと推定されています。(『嬉遊笑覧』による) 江戸で 切子ガラスを始めたのは 加賀屋の手代 文次郎という人で1834年 (天保5年)のことでした。 日本橋通り塩町の加賀屋は 1773年(安永2年)の創業ですが 文政の頃 ぎやまんの製造を企て文次郎がその任に当たり やがて文次郎は主家より家名を分与され 加賀屋久兵衛と名乗り この加賀屋久兵衛の名で出された引札(チラシ)が現在数種類確認されています。引札には飲食器 文房具 理化学用ガラス器など 多種多様のガラス製品が描かれ  当時のガラスを知る格好の資料を提供してくれています。
一方 加賀屋と並んで 江戸でガラス製造を行っていたものに 上総屋留三郎という人がいました。 浅草南元町に工場を設け 簪(かんざし)風鈴など 製造販売していましたが 後に長崎に出て技術を学び 安政年間(1854〜1860)には 蘭医川本幸民の注文で レトルトなどの理化学用や医療用の器材をつくったということです。

薩摩藩における ガラス製造は27代島津斉興(なりおき)によって 着手され1846年 中村騎射場跡に製薬館を創設し 医薬の製造に着手しましたが  強い酸にも耐えうるガラス瓶が必要となり 江戸から腕のよい職人を薩摩に連れ帰ることを考えた斉興は 加賀屋の徒弟で当時硝子師として著名な 四本亀次郎をスカウトしたのでした。 その後斉彬(なりあきら)が藩主となり本格的なガラス工場が設立され  薩摩切子と呼ばれる色被せのカットグラスをはじめ金を使った『紅色ガラス』の試作 鋳造による板ガラスの製造が試みられました。
 19世紀になると イギリスではボヘミアとは異なる重厚なカットが施されるようになって 日本の江戸切子や薩摩切子の源流は  このイギリス流のカットと言われています。

ラムネは明治元年に中国人連昌泰が 東京築地で製造を始めたのが そもそものはじまりで (『明治文化史』第12巻 生活篇) 明治14年にそこの配達人をやっていた鈴木章吉が独立して 芝日影町で「洋水舎」をおこして ラムネの製造を始めました。 ラムネを入れた瓶は 当初イギリスから輸入していました。 ラムネは西洋水と呼ばれ 外国人用の飲料水でもあったのでイギリスと同じように 玉入りラムネ瓶に入れて売られて 1897年(明治30年)ころ  ラムネ瓶の製造が始まりました。
ガラス鏡は1551年 フランシスコ・ザビエルが日本布教のために山口の大名大内義隆に 布教の便宜を計ってもらうために会った折に 贈ったのが最初とされています。その後幕末になってヨーロッパ人の往来が盛んになるにつれてガラス鏡も  舶来品の一種として非常に歓迎される商品として輸入されるようになりました。
眼鏡 望遠鏡 カットグラス 等も宣教師達がもたらしたものと推定されています。

日本の板ガラスの生産は 薩摩藩の集成館において すでに幕末にその試作が行われていましたが 建築用というより 船舶用に作られたもので 薩摩藩以外にも 佐賀の鍋島家 長州の毛利家 福岡の黒田家 水戸の徳川家などで ガラスの製造が試みられました。  しかし目覚しい成果を上げないうちに明治維新を迎えることになり その後 1873年(明治6年) に板ガラスの製造を目的に品川に興業社を起こしましたが 失敗し1876年(明治9年)には官立の品川硝子製作所として再スタートさせましたが これも挫折しました。数々の失敗を経て 島田孫市が1888年(明治21年)に大阪の日本硝子会社から独立して  島田硝子製造所を設立 1902年 (明治35年)になって日本で初めて板ガラスの工業化に成功し 1909年(明治42年)旭硝子で本格的な板ガラスの国内生産が実現しました。  それまでは  板ガラスはその需要のほとんど大部分をベルギーから輸入してまかなっていたのです。
ガラスの原料も 江戸期の伝統的な鉛ガラスに替わって明治16年からソーダガラスが一般化し 加飾法や色ガラスにも 長足の進歩がみられるようになりました。
大正期の氷コップにみられる華麗な色ガラスの流行は諸外国では例をみない日本特有の現象と言われ 明治20年代(1887〜)から大正期にかけて ガラス瓶をはじめ各種の器物の生産が飛躍的に発展しました。  明治20年代前半には ドイツからシーメンス式のガラス窯が導入され 40年代には圧搾空気による 機械吹き製瓶技術が開発されました。 大正期には全自動による 成形法が採用され 皿や鉢コップ類の量生産が大幅に進歩したのです。
個人がガラスという素材を使って作品を作るようになるのは 昭和になってからで カガミクリスタルの創立者各務鑛三が 昭和2年にドイツ留学から帰国し グラヴェールの技術を生かした独自の活動を開始したのが 日本における真のガラス工芸の創始であると 言われています。

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種類


ガラスの特性は その組成分によって変わります。 ソーダ・ガラスは柔らかくて展性があり 比較的ゆっくりと硬化するので 時間をかけて複雑な形状のものを作ることができます。 ほとんどの古代ガラスは ヴェネツィア・グラスや15〜18世紀のガラスと同じく ソーダ・ガラスでした。
ソーダは海草の灰から カリは落葉樹の灰から得ていましたが ソーダとは対照的に カリはガラスに色が着いたり汚濁しないように 複雑な浄化過程を経なければならなかったのです。アルプスの北部では 11世紀から カリが熔剤として使われ  カリ・ガラスは堅くて硬化も早く 当初 緑色がかった森林ガラス(Waldglas)はカリで作られ 清澄と脱色の技術が発達してからは カットやグラヴェールに適したクリスタル・ガラスが作られるようになりました。
酸化鉛(Pb2O3)が熔剤として使われる場合は 鉛クリスタル・ガラスと呼ばれ このガラスは容易に熔ける上 他のガラスに比べて輝度も光の屈折率も高く 柔らかです。
鉛クリスタル・ガラスは 17世紀からイギリスで作られるようになり 18世紀の後半には 複雑なカッティングにも最適のガラスが製造されるようになりました。

【ソーダガラス】
安価で丈夫 一般的な日用品 板ガラス 保存ビン コップ など
▽ 主原料
[珪砂](砂)
[ソーダ灰](炭酸ナトリウム)NaCO
[石灰石 ](炭酸カルシウム)CaCO

▽ 成分
〈珪素 〉 62〜70%
〈ナトリウム〉13〜25%
〈カルシウム〉7〜9.3%
〈その他 〉10%

(膨張係数 90〜100)

【鉛クリスタル・ガラス】
光の反射率 屈折率が高くカットすると美しい輝き 一般的にクリスタルガラスと言えば鉛クリスタルガラスのことである。 ワイングラス 高級食器 切子 光学用レンズ 工芸品 など
▽ 主原料
[珪砂](砂)
[鉛丹] (朱色をした 酸化鉛) Pb
[炭酸カリウム](炭酸カリ)KCO

▽ 成分 
〈珪素 〉50〜55%
〈カリウム〉13〜17%
〈鉛〉24〜35%
〈その他 〉6%

(膨張係数 104)

【カリ・クルスタル・ガラス (カリガラス)】
鉛の代わりにカリウムを使うことで 軽く堅牢なクリスタルガラスになる ボヘミアガラス(チェコ) メガネのレンズ レプリカ 化学用品 光学用ガラス など
▽ 主原料
[珪砂](砂)
[炭酸カリウム](炭酸カリ)KCO
[石灰石](炭酸カルシウム)CaCO

▽ 成分 
〈珪素 〉75%
〈ナトリウム〉5%
〈カルシウム〉5%
〈カリウム〉15%

【ホウ珪酸ガラス(耐熱ガラス)】
ホウ酸を加えることで化学的耐久性を増し 急熱急冷に強い 耐熱食器 理化学用品 真空管 など
▽ 成分 
〈珪素 〉80%
〈ホウ酸 〉11、8%〜12%
〈アルミニウム〉2%
〈その他 〉6%

【石英ガラス】
純度が高いため 透明度が高く 望遠鏡や双眼鏡などの光学機器 光ファイバー など
▽ 成分
〈珪素 〉100%

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原料


ガラスは古代より 珪砂(二酸化ケイ素)を 主原料としそれにソーダ(炭酸ナトリウム)木炭(炭酸カリウム) ライム(炭酸カルシウム)などの熔解を促進するためのアルカリ分を加えて 溶解窯の中で加熱して作られます。
一般に砂状の珪砂と岩石状の珪砂があり 主に海岸から採集されています。珪砂は石英の細粒で その大きな結晶が水晶で いずれも化学式で書くと(SiO)となり  日本の多くの海砂が珪酸塩鉱物を含むため灰色であるのと対照的に 地中海の砂は珪砂に富むため白砂が多く分布 しています。
アルカリ分としては 主として塩湖に産出し 炭酸ナトリウムの含水塩(NaCO・10HO)があり 鉱物名をナトロン(natron)と言い 天然のソーダ灰として  エジプトやサハラ砂漠の塩湖は古来その産地として有名でした。

 一方 植物はカリウムKやナトリウムNaを多く含み 燃やして灰にするとその中に高濃度のアルカリ分が含まれます。木や草 海草などを燃やすだけで簡単に得られるので  広く利用され ミイラを作るのにも ナトロンは使われていました。

その他ライムCaCOは石灰石で安定剤として使われ きれいな大型の結晶は大理石と呼ばれます。  石灰石はガラスを固まりやすくし耐水性を持たせ常温で固化させるための原料です。

 副原料として着色剤 や 消色剤 ガラスを溶けやすくする融剤 ガラスの泡の切れをよくするための静澄剤 酸化剤や還元剤があります。

ガラスは人類初の化合物と言われ 原料の調合を変えれば どのような性質のものでもつくりだすことができます。色ガラスになったり 摺りガラスとなったり いろいろに姿を変え 性質を変えて変化します。
ガラスは  あるときは無色透明で 石や金属 繊維のようにもなり わずかな光を千キロメートル 離れた所まで送る通信用光ファイバーとして 目に見えないものを拡大したり 水のように 液体にも 硬い固体にもなります。

現在 ガラスは大きな展開をつづけ 800年前のアラビアで耐熱ガラスが発明され 多くの化学的発見が行われ 膨張率がゼロという板ガラスがクッキングテーブルとしてつかわれ  コンクリートに落としても壊れない強化ガラスも一般化されています。透明にしたり 不透明にしたり コントロールできる液晶ガラスや 人体と一体化できる ガラスの人工骨や人工歯根 が実用化され ゴミ処理の焼却した灰の処理にも  灰はガラスの大切な原料であることから その灰をガラス化することで 灰の中に含まれている有害物質を 無害にしてタイル等に有効利用することも可能で 一度ガラス化されたものは 廃品となっても 100%再び新しいガラスにリサイクルできるのです。

地球上の鉱物 植物動物も すべて ガラスの原料になり得ます。

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着色


ガラスが色を示すのは ガラスを構成する有色金属元素の電子が特定の波長の光を吸収するためです。
珪砂などの天然の原料を使うと 微妙に含まれる鉄によって ガラスは淡緑色になり ラムネやワイン瓶に 見られるような緑色になります。 また同じ鉄でも ビール瓶のような褐色にもなり これは鉄の状態が異なるためで 酸化状態は添加物やガラスをつくる窯によって変わるので 色も変わることになります。

色ガラスを作る場合は 金属酸化物を加えてガラスを着色します。

[青]・・・コバルト 銅 など
[緑]・・・鉄 銅 クロム ウラニウム
[黄]・・・鉄 セリウム ウラニウム チタン 銀
[赤]・・・銅 金 セレン
[紫]・・・マンガン コバルト ニッケル
[乳白色]・・・蛍石 骨灰 水晶石  など

同じ着色剤でもガラスの主 副原料 酸化還元の状態によって 色調が変わって来ます。  最近では セレン セリウム プラセオジウム ネオジウムなども着色剤として使われています。
無色のガラスは 原料の浄化とガラスの脱色によって作り出すのですが 脱色は物理的あるいは化学的な方法で行います。  まず第一の方法としては補色の原理が利用され 緑色に対しては赤紫色を用い この場合は二酸化マンガンが使用されることが多く 科学的な方法としては ヒ素や硝石などの酸化物をガラス原料に添加する方法があります。

天然の鉱物は クジャク石は緑 トルコ石は青 というように様ざまな色を持ち 古代人がこのような有色鉱物を加えてガラスに色をつけてみようと思ったのも 自然なことで ガラスの中で 金属が微粒子で存在すると  金は赤 銀は黄に色が付きます。
8世紀〜9世紀のイスラーム・ガラスに特徴的な ラスター・ステイン装飾ガラスの黄褐色の文様は 銀のナノ粒子による着色です。 最近 ナノテクノロジーが注目されていますが 人類は昔からナノテクノロジーを利用して ガラスに色を付けていたことになります。

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産地


【ナソン&モレッティ】(Nason & Moretti) イタリア
ヴェネチア・ガラスが最も華やかだった13世紀〜18世紀の ムラーノ島を代表する工房のひとつ 由緒あるガラス職人の家系である ナソン家とモレッティ家が1925年に設立した工房である。 「クリスタッロ」と呼ばれる無色透明のソーダガラスで作られていて 極薄に吹き上げた口当たりのなめらかなボウル(グラスの上部)と安定感のあるステム(脚部)に高度なテクニックで複雑な装飾が施されていて ヴェベチア・ガラスの伝統芸になっている。

【モーゼル】(Moser)チェコ
ボヘミアグラスの代表的なメーカー。  チェコ共和国のボヘミア盆地は古くからのガラスの産地で17世紀には森林に豊富なブナ材をもやして得る炭酸カリウムを加えて 「森林クルスタル」と呼ばれる伝統素材であるカリ・ガラスを作り出し  精密なカッティングとグラヴィールにあって非常に深く彫刻していく。 「ディープエングレーヴィング技法」は モーゼルの得意とする技法。

【スワロフスキー】 (Swarovski) オーストリア
19世紀 ボヘミアのガラス職人ダニエル・スワロフスキーによりカッティングマシンが発明され 数倍の速度で高精度なカットを均質に仕上げることができるようになって 品質が飛躍的に向上し  クリスタルガラスを芸術の域にまで高めた。当時この機械の存在は極秘とされ 秘密を守るために1895年チロル地方に工場を移転する。
スワロフスキーのジュエリーストーンはカットビーズからシャンデリアや王冠レプリカまで  あらゆるところに使われ 本物のような輝きの秘密はクリスタルガラスの内部で光を最も効果的に屈折させているからである。

【ロブマイヤー 】(Lobmeyr) オーストリア
1823年ウィーンに創設 1836年ハプスブルク家の皇室にシャンデリアとテーブルセットを納めて「皇室御用達」になる。 硬くて傷のつきにくいカリクリスタルを使用。 すべて 手作業による ていねいな製品作りに定評があり  とくにグラヴィールのテクニックは世界屈指のレベルを誇る。

【ヴァル・サン・ランベール】 (Val Saint Lambert) ベルギー
アール・ヌーボー/アール・デコ時代には芸術指向の製品をつくり 第2次大戦後はステンドグラス材を手がけ 時代によって製作テーマを変化させているがベルギークリスタルの代表的存在。 ネーデルラント(オランダ)王ウイリアム1世の要請により 1825年にヴァル・サン・ランベール修道院の跡地に設立。 ヴェネツィアンの彩色とボヘミアンカットの技法を受け継ぐ。すべてをバランスよく高い質を完成させるために製作にはチーム制をとっている。

【バカラ】(Baccarat) フランス
1764年バカラはロレーヌ地方のバカラ村に工場を創設。1816年には本格的なクリスタルグラス製造に着手。 現在 フランスの高級クリスタルガラス製品の半分を生産するフランス最大のクリスタルガラスメーカーである。 バカラ製品の美しさは その素材にあり 通常のクリスタルガラスの原料に含まれる酸化鉛の割合が 24%よりも超えて30%で 独自の調合が輝きと重量感を生み澄んだ音を響かせる

代表シリーズの「アルクール」は1825年にアルクール公爵のためにつくられたデザイン。 シャンペングラスで名高い「ドンペリニオン」シリーズもボウルからステムにかけて継ぎ目がなく  シャンパンを注ぐとまっすぐに泡立つように 計算されている。

【ラリック 】 (Lalique) フランス
アール・デコを代表する ルネ・ラリックが設立 その偉大な才能と業績は息子のマルク 孫娘のマリークロードへと受け継がれている。 ラリック社の製品の特徴は ルネが工夫したフロスト加工によって ガラスの表面をつや消しにする技法で 使う薬品の調合や腐食時間を工夫することで複雑な陰影や 多彩な乳白色を生み出している。

【サン・ルイ】 (Saint Louis) フランス
ルイ9世にちなんで 名づけられた「サン・ルイ王室ガラス工場」として1767年に創設。  1781年にはヨーロッパ大陸では はじめての鉛入りクリスタル・グラス作りに成功。グラヴェール 金彩 ミルフィオリなど さまざまな 新しい技術を開発した。 グラスの縁に豪華な帯状の金象嵌をまとい 細やかなカットとグラヴィールを散りばめたデザインは世界の国王や元首たちの晩餐会御用達となっている。 1840年に製作された様々な技法を駆使した芸術的なペーパーウェイトが世界的に有名である。

【コスタボダ】 (Kostaboda) スウェーデン
コスタ社は1742年創業。 1965にボダ社と合併 コスタボダ社となる。 世界的に有名なアーティストが活躍 伝統的な作品からカラフルで個性的なものまで幅広いバリエーションを持つ。デザインの面白さと力強さに定評があり 北欧らしく使いやすさが重視されてハンドメイドのぬくもりも味わえる。

【オレフォス】 (Orrefors) スウェーデン
1898年 薬瓶インク瓶などを作る工場として創業。1910年にクリスタルアートと呼ばれる工芸品に着手 スウェーデンを代表する歴史ある伝統的クリスタルガラスメーカー。 専任デザイナーと 職人の息のあったチームワークがエレガントな作品を創り出している。洗練されたテーブルウェアはノーベル賞受賞晩餐会で使われる「ノーベル」シリーズに代表される。

【イッタラ 】(Iittala) フィンランド
暖かみのあるシンプルでモダンなアート感覚が特徴で 200年の歴史を持つ。デザイナーがそれぞれ独自のアトリエを持ち  自由な環境で創作活動を行うシステムになっている。フィンランドデザイン界の天才 タピオ・ヴィルカラが1954年に発表したグラスシリーズ「タピオ」が有名で 丈夫で機能性と合理性に優れている。 硬くて壊れにくい カリ・クリスタルが素材で フィンランド・ラップランドの高原地帯から産出する良質の石英砂が カリウム分の純度が高く 丈夫で純粋な輝きを 生んでいる。

【スチューベン】(Steuben)アメリカ
1903年 イギリス生れのガラス作家フレデリック・カーダーが ニューヨーク州北部のコーニングにガラス工場を設立 1918年に 耐熱ガラスメーカーのコーニング社の傘下となり無色透明なガラスの製作を開始。 大胆なフォルムに彫刻をほどこすスチューベンのスタイルを確立していった。  世界的に有名な芸術家がデザインしたことでも有名である。 1947年トルーマン大統領がイギリスのエリザベス女王の成婚祝いにスチューベンのクリスタルを選んで以来大統領から国賓に贈られる公式ギフトとして数多く用いられており 芸術品として高く 評価されている。

【北一硝子】日本
小樽の地に「浅原硝子」として 北一硝子が誕生したのは明治34年(1901)のこと当時は生活必需品であった石油ランプの製造に力を入れていた。 漁業用のガラス製浮き玉を製造するなど 小樽の歴史と密接に関わりながら発展をとげ 浅原硝子から現在の北一硝子へ社名変更したのは昭和46年(1971)である。  グラスやアクセサリーインテリア用品 など様々なガラス工芸品に着手 ショップや工房 美術館なども展開 「ガラスの街 小樽」 を作りだし ガラス文化を支える大きな力となっている。 石油ランプで 電気の光にはない温かい輝きを持つランプは実用にも耐えうるおしゃれな 照明器具として人気が高い。

【江戸切子】日本
江戸期はほとんどが無色透明のカットグラスだったが 大正末期から昭和初期以降になると 欧米製品の影響で透明なガラスの上に青や紫赤緑などの色ガラスを被せて カットを施した物が大流行して新しいカット技法などを導入し発展し 現在にいたっている。 カットは西洋のものを手本にしながらも 日本的なデザインにアレンジされ 「魚子(ななこ)」「 麻の葉」「 籠目」「 矢来」「 格子」などと呼ばれる切子文様が開発された。

【薩摩切子】 日本
江戸後期 銅を用いた暗赤色と呼ばれた深い紅色ガラスの製造に成功した。薩摩切子は無色透明なガラスに 色ガラスを厚く被せ  その上から浅く鈍いカットによる「ぼかし」のやわらかな光が魅力的である。

【カガミクリスタル】 「KAGAMI CRYSTAL」 日本
ドイツに留学してガラス工芸を学ん各務鑛三が 1934年に創業 1937年のパリ万国博金賞受賞にはじまり 各種の賞を得た。名実ともに 日本のガラスのトップメーカーであり 屈折率の高い上質の鉛クリスタル素材にカットやグラヴィールの技法で優美な文様を刻むところに特徴がある。 無色透明のクリスタルにクリスタルを被せたカガミクリスタルの誇る素材である。 特にカガミの赤色は着色剤として純金を使うことで金赤色と呼ばれる深みのある色調が生まれる。

【ホヤ 】「HOYA」 日本
1941年 東京保谷に創業。 1974年にクリスタルグラスの通電熔解に成功 して 純粋無垢で透明な輝きを持つ純度の高いガラスを誕生させた。 眼鏡レンズやコンタクトレンズのトップメーカーとしてよく知られているが 花器や オブジェからテーブルウェアまで 種類の豊富さでも定評がある。 日本の美意識を取り入れたデザインも HOYAの特徴。

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アール・ヌーヴォー (Art Nouveau )


アール・ヌーヴォーとは 1900年を最盛期として その前後およそ20年ほどの間に開花した芸術運動のことで その時代の独特な表現様式をさす言葉です。「新しい芸術」という意味で  日本美術の紹介者として知られる美術商サミュエル・ギングが 1895年パリに開いたギャラリーの名によると言われています。 短い期間に欧米の諸国にも広がり その内容は建築や工芸だけでなく  各種の装飾美術 絵画 彫刻とファッションや日常生活にまでその幅を広げました。 若さや現代性を主張したもので過去との時代の決別の意志が表現されています。
この様式のきっかけは  イギリスの産業革命以降 近代化の中で提唱された1970代の「アーツ・アンド・クラフツ」(芸術と工芸)運動で 機械化文明に対する反動思潮と言われています。  量産システムによる品質の低下や趣味の悪化が工芸まで及ぶことを嘆き いわゆる美術工芸の向上を目指すものでした。一方 1980年代後半のフランスに起こった文芸運動の象徴主義  同時代のヨーロッパ全体に広がった世紀末芸術の動きも このアール・ヌーヴォーにかかわりがあったとされています。
主題や表現における装飾性や象徴性 幻想性や官能性 オリエンタリズムやジャポニスムなどに及んで アール・ヌーヴォーのガラスはその新芸術の典型的な例となったと言えるのです。 長いガラスの歴史の中で 19世紀に現れたアール・ヌヴォースタイルのガラスは 初めて純粋造形芸術となり 個人作家(工房)の登場は近代芸術にみる「個の目覚め」がガラスという分野にも  波及していったことになります。

フランスにおける アール・ヌーヴォーの一大拠点となった フランス東部ロレーヌ地方のナンシー市でエミール・ガレ を中心とする芸術家達は  「ナンシー派」と呼ばれました。
アール・ヌーヴォーでは 机の上の灰皿や置物から 鍵穴 椅子 建築そのものまでが対象となりました。新しい世代は日常生活の全てを今までにない新しい芸術で包み込むことができないかと考え  身の周りに置く物の選択が 自らの思想を表明する手段でもあると考えたのです。日常生活に美をもたらすのは一点物の高級品やファインアートだけでなく デザインされた日用品こそがその底辺にあるという考え方があり  近代的な意味での 「デザイン」誕生の瞬間でもあったのです。

▼ エミール・ガレ (1846〜1904)
ガラス工芸から出発したエミール・ガレは 美術工芸 文学 植物学さらにはビジネスと多彩な才能の持つリーダーでした。 ワイマールやマイゼンタールなどヨーロッパ各地で修行した後 1867年より 父親が経営するファイアンスとガラス製品販売・加飾の事業を手伝うようになり 家業を引き継ぎ 1885年から高級家具製造を手がけるようになります。 1884年に開かれた陶器とガラスの展覧会で すでに注目を集め 1889年のパリ万国博で陶器 ガラス 家具の3部門入賞を果たし その後 新たな技法を開発 1898年にガラスによる  マルケトリーとパティネの技術で特許を受けます。 様々な影響が認められるガレの作品は 作家の多様な関心を示しており 自然のモティーフが優先されてはいますが 決してそれに留まるものではなく  装飾芸術の刷新に早くから取り組む一方 フランス国内のみならず イギリスやドイツの支社を通して また生産の機械化もあり 質の高い作品 の量産と普及に成功します。 1901年には「芸術産業地方同盟」(ナンシー派)を設立 初代会長となりました。

エミール・ガレは チルチルとミチルで知られる名作『青い鳥』の作者メーテルリンクの詩を引用しながら 自らの作品について次のように語っています。
『路ばたに 種を蒔くのを怖れてはいけない・・・・(メーテルリンクの詩の一節)
でも私は 花に愚かな争いをさせたくありません。花を趣味や研究の対象に使うことすら躊躇します。 でも今日 花を野蛮な人びとの足元に投げねばならないのです。  花の死の感動的な美しさを もっともつつましいものの上に広げ なければなりません。花咲く小道を奪われた群集の中で ただ一人でも 一本の花を家に持ち帰る人があれば 何百というい生命ある芽が動物やけものたちの足下に踏みにじられて苦しんでも構いません。
地面に投げ捨てられた薔薇の花に一瞬でも同情し しなびたもの 打ち棄てられたものへの何となく嫌悪感を感じるとしても 身をかがめて拾ってくれるならば 幾千の人々に花びらが踏みつけられて  苦しんでも構いません。
メーテルリンクが言うように 「美しいものは なにものかを清めることなく 命絶ゆることはない」のです。 私の作品に 冬のクロッカス アルプスのサフランの花を描いたのは  このようなことを花で表現したかったのです。
それは また ソラネ(茄子科の植物)や百合の言葉でもあるのです。
おだまきの花はその悲しみを隠そうとはしません。
  悲しみよ 私の飾りとなっておくれ! (ヴィクトール・ユーゴの詩より) 』

▼ アントナン・ドーム [Antonin Daum]弟(1864〜1930)
   オーギュスト・ドーム [Auguste Daum]兄(1853〜1909)
1878年 兄弟の父親が ナンシーでサント・カトリーヌガラス工場を買収し そこに オーギュストとアントナンが加わりました。オーギュストは古典を学んだ後 パリで法学の学士号を手にしますが 父親の工場経営に専念すべく公証人の職を捨て 1909年にオ−ギュストが亡くなってからは  弟のアントナンが家業をひとり引継ぎました。
アントナンはリュネヴィルやナンシーのリセで学び 1887年にパリ中央工芸学校で学位を得た後 すぐにガラス工場に入り 製品の形体と装飾の刷新に取り組みました。

オーギュストの経営手腕とアントナンの創造的な才能は ナンシーのさまざまなガラス工場に芸術部門が出来てからは 事業に新たな経済的 芸術的な発展をもたらすことになりました。  ガレとはちがう 特殊な技法を駆使して可憐な草花や昆虫 幻想的な風景を表現しています。ヴィトリフィカシオンをはじめ さまざまな技術が彼らの手で開発され 1899年には  アンテルカレールの技法で特許を受けます。
兄弟は営業部門をオーギュスト 芸術部門をアントアンの仕事とし すでに名声の高かったガレのガラスは彼らにとって かけがえのない刺激となっていたようです。  1891年には「ナンシー・ガラス研究所」を設け ナンシー派の画家や陶工などスペシャリストを集め研究開発を積極的に進めていきました。 ドームの名を一躍高めたのは 1900年のパリ万博で 独創的かつ高度な技術 着想 表現において 一つの極致を示すものであったと 言われています。

ドーム社は ナンシー派にあって ドーム一族の継投経営により 時代の変転を乗り切り 現在なお活動している唯一の企業でもあります。 装飾的ガラス器の製造において 大きな商業的成功をおさめ 贅沢なガラス器の分野で築いた世界的リーダーとしての評価は その子孫によって現代まで保たれ続けているのです。

▼ ティファニー(1848 〜1933)
アール・ヌーヴォー全盛期に アメリカのモダン・ガラスにおける象徴的存在と言われている ルイス・コンフォート・ティファニーは  宝石商で知られるティファニー家の長男として生まれました。 家業を拒みパリで画家の修業に励みますが彼は絵画だけでは満足できず しだいに装飾美術やインテリア・デザインへと関心を向けていきます。 彼は 1878年 自分のガラス工房を設け納得のいく効果を出すガラスを手に入れるためにガラス板の製造にまで着手しました。複雑なアール・ヌーヴォーパターンと虹色のヴァブリル・ガラス  それに透明ガラスと彫刻的なフォルムを結合して生み出す デスクランプ フロアスタンド スワックペンダントなど 創意性豊かなその華麗さと 特に彼の手になる オパールセントグラスで作られた質の高い職人芸と 繊細なデザインのランプシェードは その希少価値と共に現在も有名です。
1885年に新たな「ティファニー・ガラス・カンパニー」を設立。 当時アメリカの教会建築は急増し 併せてステンド・グラスの需要も頂点に達するほどとなりました。 ティファニーはデザイナー・チームを組織してこれに応え いちだんと人気を高めていったのです。 しかし ティファニーが装飾ガラスの作家として世界的な名声を獲得するのは1890年代に入ってからで  ティファニー・スタイルのガラスとして最もよく知られる豪華華麗なテーブル・ランプは 1899年から製作されています。その後第一次世界大戦を境に 彼は一線を退き  晩年はむしろガラス芸術の普及や育成に力を注ぐようになり 1932年 84歳でこの世を去りました。

ティファニーによって発明された  カッパーホイル技法は従来のステンドグラス製法がH型やU型の鉛桟(ケーム)を用い その溝の中にガラスをはめ込み 接点をハンダづけしていくのに対して  カッパーフォイル法は 銅製の粘着テープで それぞれのガラス片を縁取りし ハンダで留めながら組み合わせていく方法であるため 鉛桟がつかえないような場所にでも  特有の柔軟性を生かして使用できる大きな利点となり 現在も引き継がれています。

▼ 高島北海(得三) (萩1850〜東京1931)
1885(明治18年)〜1888までの3年間 日本人留学生として政府よりナンシーに派遣され 水利 山林技師でありながら画家でもあった高島北海は ナンシーの多数の芸術家達と親交を結び  彼らが日本美術の理解を深め 製作に生かしていくのに貢献し ルイ・エストーやカミーユ・マルタンら 日本芸術を敬う芸術家達に大いなる影響を与えました。
日本の植物や農業について数多くの論考を持つ北海は1886年にはヴィネールの店のショーウインドーを使って個展を開き 翌年にはナンシーの美術展に参加しました。 最後に北海が ナンシーを訪問したのは1889年で この後日本に帰ってからは 1897年に公職から身を退き 1902年(明治35年)以降は画業に専念して 日本画壇の指導的位置で活躍し  文展日本画部の審査員を務めました。

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アール・デコ


アール・デコは 1920年代を盛期として ヨーロッパ アメリカに波及した新しい造形様式のことです。「装飾美術」を意味し 1925年にパリで開かれた 「現代装飾美術産業 美術国際博覧会」に由来した略称とされています。両大戦間に開花した ベル・エポックのモダン・スタイルでもあります。
アール・ヌーヴォーの優美な曲線や繊細な装飾性とは対照的に 直線的でダイナミックでシンプルなデザインによる現代的な感覚を志向するもので 感情や情趣を排除し  合理的で普遍性のある機能美を目指すものでした。 生産性においても量産を可能として大衆化をはかることも重要とされました。 第一次大戦の勃発と終焉とともに 時代は大きく転換し 車や飛行機に代表される新時代の文明の進展は人々の生活感覚を変えて いわゆるモダンな都市文化の象徴として アール・デコがうまれたのです。

フランスを中心とするこの様式は アール・ヌーヴォーの時代から それに批判的なグループが 対立する造形の概念を提示し始め 1903年設立の「ウィーン工房」に参加した  クリムト ヴァーグナー ホフマン オルブリヒ コロマン・モーザーは 早くから装飾性を避けた機能主義的な簡素なデザインを主張し 物体の基本的な形状を尊重した単純な構成を推し進めていました。  後期アール・ヌーヴォーと初期アール・デコは 重層し交錯しながら移行していったのです。

▼ ルネ・ラリック
アール・デコの様式を 最も顕著に表現し ガラスの象徴的な存在となったルネ・ラリックは 1902年にガラス工房を開き  1907年 ルネ・コティから装飾的な香水瓶のデザインを依頼されました。 アール・ヌーヴォー様式の宝石デザイナーとしてすでに高い評価を受けていましたが  後半の人生をガラスに賭け  そのスケールの大きさと多彩な造形は他に類がなく 造形の飛躍的拡張を推進した作家として知られています。
 ラリックの製品は型を用いており 吹き込みか  あるいは鋳造法でつくられていて非常に深い浮き彫りや明確な細部が表現されています。製品の種類も膨大で多様な壺や 花瓶 に加えて 食器 化粧道具装身具 置時計 彫像小さなテーブルランプ シャンデリアにいたるあらゆる照明器具 ガラス家具なども 生産しています。

▼ モーリス・ マリノ
この時代に 最も斬新な作家 前衛作家として知られるモーリス・マリノは 第2次大戦後に起こった スタジオ・ガラス運動の先駆者的な仕事をした人として  アール・デコから現代への架け橋を築いた一人として有名です。
マリノのガラス器はごく初期の作品を除いては すべて彼自身が制作した量産を目的としないもので  光や色彩 テクスチャア フォルムなどによって力強く 深い詩情が表現されています。 吹きガラス技法によって 酸化物や気泡を封入した実験的な作品をつくり  またフリーハンドによる歪んだ成形や表面腐食による凹凸など アール・デコスタイルの美観を超えるような造形を試みました。

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